パラグアイの日本人移住区イグアスへ!
- 2014年3月9日
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パラグアイの南部にあって、アルゼンチンとの国境の街エンカルナシオンから
日本人移民の街イグアス(滝のあるイグアスとはまったく別です)へ
行ってみることにしました。
てなわけで、宿のにゃんこさんにお別れにゃり。と思ったけど、またまたお眠り中でした。
寝相が可愛すぎるにゃん、反り具合がたまらにゃい♡
またね、さようにゃら〜。
バスターミナルへ向かう道、エンカルナシオンのにゃんと遭遇。ハチ割れヘアーです。
少し恐がりつつも、
“にゃーーん!”
って、何か言ってるけど、にゃんだろう?
なんだか、いろいろと気になるお年頃? にゃにを見ているのかにゃ?
さて、南米といえば、日本人の移民がたくさんいます。
日本の海外への移住がはじまったのは、1868年のハワイ王国がはじめで
その後ハワイが北米の一部になると、移住はアメリカのほうから
やがて南米のペルー、ブラジルまでと広がりました。
移民の多くは、日本政府の募集により、出稼ぎ予定で海外へと移り住んだようで
永住するつもりはなかったと聞きます。
とはいえ、当時、奴隷制度廃止直後のブラジルでは、奴隷の代替としての人材が求められ、
南米での日本人移住者がその役をあてられるなどして、彼らの暮らしは過酷きわまりないものだったようです。
実際には、その状況を耐え忍ぶか、逃亡しかなかったようで、日本に戻ることも
お金を稼げず不可能であることがほとんどだったそうです。
その時へと想いを馳せてみると、なんとも言えない気持ちになります。
パラグアイにある日本人移住区「イグアス」へ、
エンカルナシオンからローカルバスでゆっくりと約5時間ほど移動して到着。
お目当ての宿は、旅人の間で評判のよい「ペンション園田」。
なんとなく、実家に帰って来たような、田舎のおじいちゃんちに遊びに行ったような
そんな安らぎのするペンション。
嬉しいことに、日本語の漫画や本を置いた部屋までありました。
しばらくすると、車がやってきて、何かと思えばお豆腐屋さん。
おじさんちの、手作り豆腐だそうです。同じ園田さんにち泊まっていた日系ブラジル人の彼女が
お豆腐を一丁買っていました。
お豆腐のたれ、油揚げまでありまして、やっぱり和を感じると、とっても嬉しく感じてしまいます。
その後、イグアスを散策。といっても、小さな村。移住はじめのころは、何もない土地だったそうです。
それを現在の姿にまで開拓したのは、「日系」と呼ばれていますが、日本人なのです。
ペンション園田で教えてもらった、うどん屋さんへと来てみました。
久しぶりの和食!
日本語とスペイン語の看板にゃり。
ああ、NHK! 相撲! たいして日本を離れているわけではないけれど
地球の真逆の場所から日本とのつながりを発見する喜び!
海苔とネギは麺つゆの中にいれるはずが、(私が)間違えてしまいましたが
冷やしうどんと言って 、水の中に入ったうどんが登場! ふむ、パラグアイ式?
でも、作ってくれたのは日系のおばさまで、顔も日本人だし、日本語もぺらぺら!
お稲荷さんまで頂いてしまいました。
うどん屋さんの後も、日本スタイルがあちらこちら。というよりも、日本です!
神社の鳥居がありました。
神様はいらっしゃらない感じでしたが、街に作られた日本のシンボルであって、
移民のみなさまの大切な「祖国の誇り」のような気がしました。
それから時間外でクローズされていたのは残念でしたが、日本会館がありました。
イグアスへは、移民して50年たつようです。
日の丸と桜の花。でもやっぱりスペイン語が書かれているのが不思議な感じです。
イグアス日本語学校の入学受付!?
日系パラグアイ人であっても、日本語を勉強する会があるようです。
もはや、街を歩いていて、ここが南米だとは思えなくなっていきました。
間違いなく、日本では?
イグアス移住区、日本語がたくさん聞こえるし、日本人の顔をした日系パラグアイ人が
たくさんいて、これまでに経験したことのない不思議な街でした。
なによりも、日本を離れ、はるか遠い異国の地に降り立って、過酷な環境を乗り越えながらも
「居場所」をつくっていった日本人の大先輩方の勇気に頭がさがる思いがしました。
つづく♡